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「聖句」の主旨(提出済み)

 五段受験が終わって直ぐに出した僧階の「『聖句』の主旨」とうお題のレポート、先日受理されて評価が来ました。少導師の最後のレポートだったのですが、有終の美という感じでAがもらえましたhappy01。Aなので、載せても恥ずかしくないなと思い、ここで発表しますnote

 目次
一 教典について
  一・一 金剛禅の教典
  一・二 聖句の位置づけ
 二 「聖句」とは何か
 三 教えの意義
 引用・参考文献

一 教典について

 一・一 金剛禅の教典
 一般に仏教の経典といえば、般若心経や法華経などをイメージするだろう。これらは、釈迦の弟子達によって編纂されたものである。
釈迦が教えを説いていた時代は、現在のような文字は用いられず、口伝によって暗誦され伝えられてきた。釈迦の入滅後、後世に正しく教説を伝える必要性から、当時の弟子達の記憶をまとめ、教えを記述した経典が作られていった。その歴史は長く、一千年以上にもわたって生み出され続けたのである。
 金剛禅では「経典」とは書かず、「教典」と記載している。これは金剛禅の教典が、一部は仏教経典の引用だが、それ以外の言葉は開祖が新しく作られた教えを集めたものだからである。金剛禅の教典は、「聖句」「誓願」「礼拝詞」「道訓」「信条」の五つの教えで構成されている。

 一・二 聖句の位置づけ
 聖句が金剛禅教典でどのような位置づけとされているかだが、宗(1988 p158)は「聖句・信条・道訓を金剛禅の実践論として理解する。聖句は、その原則であり、信条・道訓はその適用である」と述べている。聖句は自己確立、自他共楽を目指す金剛禅の修行の原則たるものである。僧階資料には「聖句こそ修業のスタートラインであり、目指すべきゴールでもある」(p4)とある。聖句は金剛禅の教典に最初に挙げられているが、これは開祖が金剛禅の修行において最も重要だと考えたからであろう。そして、我々が修業するとき、日々の生活を営むときに、心の根本に常に持っていなくてはならない教えなのである。

二 「聖句」とは何か

 聖句は原始仏典の一つ「法句経」の中から選ばれた釈尊の言葉で構成されている。現在、我々が唱えているのは、第一の「己こそ己の寄るべ・・・(略)」と、第二の「自ら悪をなさば自らが汚れ・・・(略)」の二つである。僧階資料には、「金剛禅の『聖句』に準じるもの」(p13)として、先に挙げた二句以外の聖句が挙げられている。そのいずれもが釈尊の法句経から選ばれ、金剛禅の聖句にふさわしいものが教範、教典に採り入れられている。
 法句経(ダンマパダ)とは「真理の言葉」という意味で、釈迦の言った教えを語録という形でまとめた仏典で、教典群の中ではもっとも古いものだとされている(ウィキペディア 2008)。
 開祖は釈尊の教えを端的に表現している法句経を重視され、数ある言葉の中から金剛禅の修業の根本原則となるような句を選ばれた。時代の移り変わりと共にいくつかの句が取捨選択され、現在の二句になった。
 聖句の一番は、他者、祈祷、奇跡に頼らず、己を自らの拠り所とできるような、自己確立を達成する修行に励むことが説かれている。釈迦の言う四苦(生・老・病・死)を乗り越えられるのは、その大きな苦しみを体験している自分自身でしかない。自己を見つめ、うぬぼれではない自信を身につけることが、金剛禅の修業の目的なのである。
 第二は、自己の行いを戒め、ダーマの分霊たる我々が、自らを自身で浄めんとしなくてはならないと説かれたものである。「善因善果・悪因悪果・自因自果」の言葉のように、よい行いはよい結果をもたらし、悪い行いは悪い結果をもたらす。そして、自分の行いは、自分が報いなければならない。身の汚れは、自らの行いによって起きたものである。悪因に遭ったなら、自らの悪しき行いに寄る結果なのである。健全な社会を創造するには、よき行いを実践し、善因の種をまく事から始めればよい。いつしかその種が芽を出し、花を咲かせ、実がなる時が来るだろう。最初は小さい種のような教えが、弛まぬ布教と実践によって、理想的な社会の実現という善果となるはずだ。これが金剛禅運動のもう一つの要である、理想境建設につながるのである。

三 教えの意義

 釈迦の入滅が近づいてきた頃、「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」(「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教え)と説かれた。釈迦の死を憂えた弟子に対して行った説法である。これは自己を確立をし、ダーマ(法)に信心帰依せよ、と言っているのである。この教えは、法とそれを修めた者のあり方を端的に表現している。我々は今まで生きてきた中で価値観や判断基準が培われている。それが正しく機能しているなら問題はない。しかしながら、それが損得感情や欲望によって、大切な事を見失わせ、判断力がねじ曲げられ、誤った決断を下してしまう可能性もある。正道を進むことができるのは、正しい法を拠り所とできる、確立された自己を持つ者だけなのである。
 釈迦を含めた七仏が共通して説いた教えとして、七仏通戒偈がある。これは、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」、「諸々の悪しきことをなさず、諸々のよき行いをし、己を清めること、これが諸仏の教えである」(大島 2007 p47)というものである。以前の教典にはこの教えが記載されており、鎮魂行の際も唱和されていたものである。この教えは現在の聖句の第二と共に、理想境をこの世に造らんとする、金剛禅運動の原点とも言うべきものだろう。悪しき行いも、よき行いも、すべて人間がするものである。「真に平和な世の中は、一人でも多くよい人間を造る以外にはない」「天国はあの世ではなく、この世に造るべきである」という開祖の言葉を実現するべく、我々は正しい法を説き続けなくてはならないのである。

引用・参考文献

 ウィキペディア(2007) http://ja.wikipedia.org/wiki/

 大島 宏之(2007) この一冊で「宗教」がわかる! 三笠書房

 僧階資料(2003) 宗論(宗教論1)金剛禅の『教典』 金剛禅総本山少林寺

 宗 道臣(1988) 少林寺拳法教範  総本山少林寺

 中村 元(1958) ブッダのことば―スッタニパータ 岩波文庫

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